昭和53年01月11日 朝の御理解



 御理解 第82節
 「大蔵省は人間の口を見たようなもので、その口に税金が納まらぬ時は四分板張った戸板一枚で寝ては居られぬ。何処の太郎やら次郎やら分からぬ様になろうぞ。」

 昨日そこの合楽食堂の中村さんが、お届けをされたんですけれども、久留米の孫が得体の知れない病気で、初めは簡単に思うてこうだろうと言ったのですけれども、その病気なら熱は下がらなければいけないのに、どうしても熱が下がらない。それで嫁御さんが電話を掛けて参りました。お医者さんでは、私の方では駄目だから他の病院に変わってくれとこう言う。それでお母さんに電話を掛けてきた訳です。
 それからすぐここにお願いに参りましたから、だから何処の病院に変わったらいいだろうかとこう言う訳でしたけれども、何処の病院と言うよりか、合楽病院が一番よかがと私が申しました。得体が知れん言う事は、なら医者もどういう病気と言う事を突き止める事が出来ん。何処から熱が出て居るかも分からない。そりゃ神様にお願いをしたが一番いいが、ならそう致しましょうと言うて、電話を掛けさせて貰うて、帰って来る事に致しました。から翌日おかげでその時点から熱が下がった。
 明くる日になっても熱が出らんから、そりゃもう愈々本当におかげ頂いたばいのと言うので、昨日お礼に出てきたと言う訳なんです。今度の「合楽だより」の神愛爛にもそれとよく似た話が出ております。そこの勿体島の小西さんが、大体あの様におとなしいお方ですから、もうその文章も実におとなしい素直な、皆さん読まれたでしょう。もう一っつもてらいのないと言うか、もうその侭を短い文章におかげを頂いた実感を、その侭に書いて居られます。
 山本の吉永病院に入院されて、これも又まあ言うならば、大変な大体病気は病気だったですけれども、病院に入院された所が益々よくない。まあ一つ本人に奥さんがずっと参って日参して来ましたから、本人がそれにそう合点行くならね、もうそれこそ帰ってから合楽病院に通いなさいち。それを聞いてまあすぐ退院。お医者さんもまあ言うなら、治療しても治療した効果が見えないもんですからそうしないと。
 又悪いときには何時でも来なさい又、往診もして上げますからと、言う様な事で、帰られた事が書いてあります。そして御神縁を頂いたのは、もう随分前ですけれども、又改めて、一家を挙げて信心させて貰う様になり、それこそ合楽病院に、毎日通わせて頂く様になったら、それこそ何時とはなしに元気になり、おかげで現在お仕事の上にも、差障りの無い様なおかげを頂いて、家族の者が皆で信心さして頂いて、有難いと言う事が書いてございます。
 こういう様な例えば、なら事実と言うかおかげ話は、もう合楽の場合は限りが無い訳ですね。人に頼んで居ったら拉致が開かない。そんならもうその頼んで居るのを止めて、神様一心に縋りなさい。そこから思いもかけない道が開けてくると言う、だからあの一心の信心と言う事がです、お互い信心が段々巧者になって参りますけれども、なかなか一心になって居らない事に改めて気付きます。
 昨日お月次祭に天の道、地の道と言う事を頂いてその事を皆さんに聞いて頂いたのですね、昔でしたがもう随分昔ですけど「天然地念」と言う事を頂いた事があった。天然と言うのは自然の然と言う字ですね。天然と書いてある。地念と言うのは地に念ずると書いて、御祈念の念と言う字が書いてある。地念、まあそれによく似た御理解を、何時もまあ頂きますね。天真地心と言った様な天の真、地の心と言う様なね。
 そういう天の真地の心というものがですね。確かに天の心はそのまま真だ、天の心がその侭地の心をその侭に私共が地の心を対して行くと言う事ね、それが昨日私が家内と私の長女の例をとって話した事です。今度の福引に私共の豊美ですが「信心辛抱」と言うのを頂いた。ですからもう大体兄弟一番腹の美しい女御だと私は思うんです大体は。所が辛抱がでけんのです。辛抱力が無いのです。もう神様がほんとに見通しだと、どんなにもうとにかく、私が腹を割って見せようごとあると行ってよく言うんですよ。
 自分でその美しい心なんです。それにまあ人から非難を受けたり悪口を言われる。言われるはずです辛抱力がないね、これに辛抱力を得た時が初めて言うなら、美しい心を天の心とするならばね、地の心はそれこそ黙って黙って受け抜く辛抱力、と言うものがねなからなければ、天地、昨日の御理解を頂いて言うと天と地が一つになって拝み合う時ね、それこそ鶴亀の舞遊ぶようなおかげ、それに片一方が欠けて居ると言う事は、ハアあの人は腹が美しい人だ。
 又自分も汚い心は持たぬと思うて居ってもです、その美しい心が認められるかの様に見えるけれども、辛抱力がないので又ご破算になって仕舞う。私家内が頂きましたくじを、とにかく何と申しますかね、私の何時も蔭で言うなら、何十年間私の信心のまあよい伴侶としておかげを頂いたその事が、何か素晴らしい文句で書いてありちょっと失念しました。私の豊美が言うんですよ、もうそれこそなら、私の家内ぐらい辛抱強いおなごは居らん。私も適わんです。
 第一それが精神的な問題であろうが、形の問題であろうが、もう顔に出さないです第一。はあ辛抱強いそれを豊美が見て言うんですよ、お母さんは根性性根が悪かち、ハハ性根が悪かけんで、そう黙って居られるち。もう腹のよかもんはパアーッと、出すと言った様な事を言う訳です。もうほんとによい対照です。だから地の心は持ち合わせて居るんですけども、言うならば天の心が豊美に言わせると、持たんとこう言うわけです。おかげでだいぶんこの頃、美しゅうなって来よりますけどね。
 私もそれをまんざら嘘ではないと思うですね、性根が悪かけんでものを言わん黙ってから堪えとる。これ以上根が強い。はあなかなか根性がしっかりしちゃるけんでと言う人は大体そうなんですね、同じ親子でも天の心と地の心の、言うならば二つを一つにしたら、そしてこれを二で割ったら、そりゃよかろと言う感じなんです。けれどもどちらがどうであってもだからいけん。
 足ろうたおかげを頂く為には、鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげを頂く為には、どうでも言うならば、地の心に欠けて居ると思うならば、いよいよ本気で、信心辛抱力を作るらせて頂く精進さして貰うならば、いわゆる鶴亀の舞遊ぶ様な、おかげにもなってくると言う事なんです。天には天の道があり地には地の道がある。天道地道と言う事になります。82節、今皆さんに聞いて頂いた事とは、全然違った意味の様でございますけれども、神様に一心を立てると言うこと。
 成程医者にも掛かってならんと言う事ではない。薬も飲んじゃならんと言う事ではない。お届けがあると、やはり祈れ薬れと仰せられますからね、どうぞこの薬が毒になりません様に、私が頂いて居るのはもう極言ですけれども、薬は毒だと頂くんです。これはお医者さんが、やっぱそう言われるんです。それを変じて薬になると言う、大体は毒だと言う。だからもうその毒には煩わされないのが一番よいのだけれどもです。
 当人も痛くてたまらないと言う時にはあの、それこそ毒であろう筈のいうなら、激しいモルヒネならモルヒネを打ちますと、和らぐだけではなくてから、平生の様に痛みを止めて仕舞うでしょう。だからそういう場合毒薬変じて薬になる訳です。私が頂いて居るのは薬はもう毒だと思う。それでもま、病院に行くと言やあ行っちゃならんと言うのじゃあない。一心と定めりゃおかげになるのだけれども。
 昨日も久富勇さんが入院をされました。そしたら大変悪い訳です。お見舞いなど行っとったら、もうこりゃ惚けして仕舞よるとじゃないろうかという位悪いんです。それで兄弟みんな寄られて、勇さんの事を色々話合いをされる時に、繁雄さんがもう病院てんなんてん言わずに、もう一辺家に連れて帰ったらどうかと言う事になって。昨日一昨日でしたか連れて帰って見えられました。そしてすぐその後に、繁雄さんがおいでられたらもうその惚けとる段じゃなか一っつも、挨拶もちゃんと出来られてですね。
 けどもやっぱ入院すると言やあ入院する事も願うけれどもね、ほんとの事に基づかせて貰うたり、又は毒が薬にならん様にと言う願いを、まあさせて頂く訳ですから、病院でおかげを頂いても、薬を飲んで良くなっても有難いけれども、これはどうしても一心が出てこないです。ややあの薬は効いたとか、あすこのお医者さんは上手とかと言う事になるです。して神様のおかげでと言うですけれどもね。
 やはり一心と定めないと、神様のおかげは本当は分からんです。そういう意味で例えば一心と言う事を、そこの中村さん所それから、勿体島の小西さんの例を以って聞いて頂いた。得体が知れない分からない、お互い例えば税金なんかでも、出来るだけまあ安いがよいとこう思う。高いならやはりそれを値切らせて貰う。そりゃ理不尽な場合は値切りもせんならん、しなければならないけれどもね、
 昨日の昨夜のお話の中にも申しました様にね、昨日は大黒様が新たに七体あすこに奉祭してあった。いわゆるまあ七福神がまた夕べは、合楽から出られた訳です。その御祈念中に大黒様のの事をお願いさして貰いよりましたら、大黒様がね、もうえらい大きな打手の小槌を持ってですね、もうへとへとして居られる。もう長うは持っちゃ居られんちゅうごた感じの、その皆がね一列横隊にズラーッと並んで居られて、それから打手の小槌をこう上げちゃるけれども、長くは持って居られまいと言う風な感じの所を頂いて。
 お互いがもう本当に、日々おかげを受けて居ると言う事。それこそ濡れ手で粟の掴み取りになるなと、言う様な御教えがありますがね、それこそ打手の小槌でもどんどん打ち出して貰うてこう言うならば商売は大繁盛、お金どん不自由した事はないそれこそ使うて減らぬ金百両と言う様な、徳もおかげも受けたい。だから願いがついつい大きくなる。又こう周囲を見てみると、信心が無い中でんこう儲け出してござる所もある。
 信心しとって貧乏しとっちゃ、神様に申し訳なかと言った様な、その理屈を付けて、神様にお願いをする。お願いをすることは良いけれども、頂くことは良いけれども、なら頂いたら頂いたで、どういう事になるかと言うと、まあだその上に頂きたいと言う心が起こって来る。と言う事よりも一番確かなもの、一番間違いの無いものと言うのは、今日までおかげを頂いて来たと言う事なんです。例えそれがよしその日暮しであっても、今日までおかげを受けて来たと言う事はおかげなんだ。
 このおかげの事実にね、気付かせて貰うてしっかりお礼を申し上げないかと、お礼の心をここへ出させて貰う事が信心なんだ。頂いて来たものはまだ頂き足らぁん様な感じがする。おかげで信心がでけたのにね、そのお礼も言わない。もうお父さん、明日食べるお米が無いですよ。もう今日炊いてしまいましたら、もうこれぎりだと家内が申します。だからね、もう今晩頂けたと言う事が有難いじゃないかと、今晩まで頂けたと言う事が有難い。そして過去を振り返ってみてです。
 愈々ないないづくしの中にあっても、んならお粥さんでもやはり一椀づつでもね、頂かずに過ごしたと言う事は、一日もないじゃないかと。事実頂いて来てるじゃないかと、だからもうお礼を申し上げる外はないよ、さあさあもうお礼をして早う休も休もと明日は明日の風が吹くぞと言う生きでした。それを思う時にですね、そのおかげをおかげと実感している訳です。
 ですからそこに絶対のもの、間違いのないおかげを、今日迄頂いて来て居ると言う事に、も少しね信心な言うなら、信心深い思いでお礼を申し上げていくと言う事。そのお礼を申し上げずに只願いの事だけ、大黒様をお祭りしたら、もうお金がどんどん入って来るような考え方で、お大黒様を奉祭すると言う様なものが強い所へ、あの小さな大黒様が大きな打手の小槌を、振り被ってござる事になるのじゃないだろうか。これで大黒様でも持てなさらんから、下にすぐ置きなさる事になる。
 釣り合うた言うならばおかげ。何処の太郎である何処の次郎であると言うならば、おかげでね、こうやって日々おかげを蒙って来て居る。国を持たない人、又国が乱れて居る所。それこそ平穏無事と言った様な事はありません。何時も命すら脅かされておると言う様な中にあってね、難儀をして居る言うならば人達もあります。おかげで何処の次郎である何処の太郎であると、はっきり自分と言うものを守って下さる一つのま。
 掟の中にあって組織の中にあってね、今日平穏無事に言うならば、もう強い者勝ちと言った様な時代がありましたですね。折角働いとったのでも、全部それを根こそぎ持って行かれる、取られると言った様な、そういう事もないおかげの中に、いわゆる何処の太郎何処の次郎とはっきりさせて頂き乍ら、日々平穏な毎日を送らせて頂いて居ると言う、その事が分からせて頂いたら、とても税金等こぎるとか高すぎるとかと言うね、それはごまかしてするけん見つけられてから罰金やら取られるでしょう。
 その言う様な例えば、教祖様ではないですけれども、十俵納めればよい所でもね、今年はよく取れたと言うて、余分に納められると言う様な心と言うものがです、言うならば天の心地の心と、言う様な心が足ろうて来なければ、心に有難いと言うものが、ほんとに神恩の広大さがを分からして貰うて、それが例えどういう今難儀な中にあっても、今日迄今日私がここにあると言う事。ね、
 昨日一昨日は安東さんの所の家移りが御座いました。久留米の藤山大きな工場も付いて居る家に、今度引っ越された訳です。所謂あの皆さんも知って居られる様に、幽霊が出ると言うお家でありました。あの家に住まわれる様になられてね、おかげで幽霊も陰を潜めたと言う感じで、それこそ近所の人も、迷うておるのも怖いと言う位なお家でした。所が安東さん達が入られてこの方と言うものは、そういうもがさらさらない。
 何人の人が替わっても、やっぱり一カ月ともたないと言う様な家だった。いわくの家でした。神様の御恩が分かり、信心のある人が住まわせて頂いたらそう言う事が無くなったら、大家さんがいわば欲が付いてきた。あんまり家賃が安いこんな立派な家を貸しとくてもないと言うので、もうやのすけひのすけその代わって呉れ、出て呉れと言われるから出ろうと思うけど中々家が無いわけ、もうそれはそれは前日なんかはもう村中に響き渡る様な声で、まあ権蔵顔で「さあ出れもう出れ」と言った様な事だったらしいんです。
 おかげを頂いて片一方に出来て、家移りが済みましたそうですが、もうそれこそ一家中でたまがった事は、もうとにかく雨嵐と言うか家がゆらゆらする様に動いたそうですね、あの出られる時に、道具を出して仕舞われたら。そしてなら自動車で向こうへ家移りの時にはもう小春日和の様なお天気だったと。恐らく又後に入った人は幽霊に悩まされるだろうと思いますね。素人はそれが分からんのです。
 安東さんに居って貰うたおかげで、この家が家としてたって行きよる訳です。ハアそればってん、昨日親子三人でお礼に出て見えてから、もうほんとにもう物珍しいとはこのことだろうかと言う位、とにかくあの新しい家がゆらゆらしたそうです。なにかそこだけに吹いたと言う感じだったそうですね。そしてこの前えらいお天気だと、そこをなら一歩出て今度移られる方へ代わられたら、まるきりそこは小春日和の様なお天気だったとこう言う様なそういう働きをです。そういう働きの中に私共があると言うこと。
 それこそ揺り動かされる様な働きもね、小春日和の様な中におかげを頂くと言う事もです、天地金乃神様のおかげを頂いて、お互いがその家に住まわせて頂いて居れば、んなら出る幽霊も出らんと、言う様なおかげが頂けるけれども、その神恩が分からない所にそういう結果になって来る。お互い例えば、んなら家なら家に対する所の私は、これは毎朝ですけれども、起きてから羽織袴を着けて、子供達があの迎えに来て呉れます。その時に必ず家に対する御祈念と布団に対する御祈念を致します。
 雨露凌がせて頂いたと言う事だけでも、大変な有難い事なんです。しかも寒いのにこの布団のおかげで暖を取らせて頂いて、冷たい寒い思いをせんで熟睡させて頂いたと言う事を御礼申し上げ、私は改めて御祈念を致します。そういう信心がでけて初めてです、はっきり何処の太郎とか次郎と言う事が出来、そして今日只今こうおかげを受けて居ると言う事に対する、神恩報謝の心が湧いてきて、例え先には今日はどういう心配事、こういう難儀な問題が降り掛かって来て居ると、言うてもそれはまあだこれからの事。
 これまでおかげを受けてきた事に対する、絶対の間違いの無いおかげに対して、御礼を申し上げると言う様な生き方が出来て来る時にです、税金も又有難い、それこそ付けてやりたいごとある心持ちでです、納める様なおかげが頂けるのじゃないだろうかと思います。ね、国恩即神恩と頂かなければならんと思うです。そこに天の道を行じて居る者、地の道を言うならば、たいしての生活して行く者の言うならば、信心さして頂く者の姿勢がそこにあるように思います。
 これはどうでも一つね、あの根本的にです、今日申しました所が分かりませんとね、言うならば税金なんかをですよ、納めんでよかごとなったらどう言う事になるかと、一辺考えて見なくてはいけんです。そこから言うならば国も、お国も段々豊になって行くでしょう。中に住まわせて頂く所謂国民の上にも、穏やかな生活が約束されるでしょう。自分だけがそんな事しよったら、それこそ正直者が馬鹿を見ると言う事は絶対ないです。信心で行く限りです、信心が無い者がです正直者が馬鹿を見ると言った様な事になる。
 いやなら不正直な者が得をしたと言うてもです、その得がどれだけに身に付く徳になる事やらね。今日は八十二節をね、解説すると言う事よりも、その周囲とでも申しましょうかね、八十二節の外側から、今日はお話を聞いて頂いたのでございます。お互いほんとに何処の次郎と太郎と、はっきりここで生活でけて居ると言う事をです、私が言うならば国恩即神恩としてです、御礼を申し上げれる信心が身に付いて来なければ、本当の意味に於いての信心生活がでけないと思うですね。
   どうぞ。